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【アラベスク】  第19章 朝靄の欠片



第4節 後ろにはご用心 [3]




 明日も休んだら、学校サボって探しに行こう。目立つと厄介だから私服を用意しておけ。
 昨日の学校帰り、そう瑠駆真と打ち合わせた。まさか、本当に私服に着替えて探しに出るハメになろうとは。
「君、どうしたんだ?」
「あ、いや、別に」
「顔が濡れているのか? 誰かに何か掛けられたのか?」
「いや、別にそうじゃなくって」
 しどろもどろと答える聡に、静かな声が背後からかかる。
「いい香りだな。香水か?」
 振り返ると、瑠駆真が小首を傾げて立っている。
「お前、いつから香水なんてつけるようになった?」
「ち、違う、これは」
 言いかけて振り返る。訝しそうに見てくる警官の視線。聡は一呼吸して、口を開く。
「喧嘩だよ」
「あ?」
「美鶴と言い争いになって掛けられた」
「美鶴? いたのか?」
「それは誰だ?」
 一歩乗り出す警官。
「友達だよ」
 ぶっきらぼうに答える聡。
「友達と言い争いになって掛けられただけだよ。ワリィーかよっ」
 苛立だしげに答える少年。だが、一見したところ、怪我もしていなければ他に怪我人が出たワケでもなさそうだ。遠巻きに見ている野次馬たちの中にも被害者らしき存在はいない。本当に知り合い同士の喧嘩だというのなら、大袈裟に警官が出ていく必要もない。しかも喧嘩の相手は美鶴だと言っていた。女性だったら、男女の痴話喧嘩か。
「ここは公共の場だ。あまり騒ぎを起こすな」
 ワザとらしく咳払いをし、エラそうにジロりと聡を睨むと、警官は溜息をついてその場を去っていく。状況を眺めていた周囲も、やがては散っていく。その中で一人、瑠駆真だけがジッと聡を睨みつけていた。
「美鶴がいたのか?」
「いた」
「どこに?」
「逃げた」
「どっちに?」
「わからない」
 まだ少し沁みる目を擦る。
「なんかワケのわからんモノを掛けられて、その隙に逃げられた」
 そうして付け足す。
「ユンミってヤツが一緒だった」
「ユンミ?」
「いかにも夜の街を徘徊してそうな、男か女かわからないヤツ。ほら、涼木(すずき)の兄貴と霞流が埠頭で睨みあってた時、俺たちを現場に連れてってくれたヤツがいただろ。あのオカマだよ」
「あぁ」
 紫の唇を思い出す。
「どうしてあの人が?」
「知らねぇよ」
 ゴシゴシと顔を擦って瑠駆真を睨む。
「ただ、美鶴を連れて一緒に逃げたって事だけは確かだ」
「ユンミ、か」
 呟くようにして、右手の人差し指を顎に当てる。
「その人が美鶴を匿ってるって可能性は?」
「大いにあるな」
 二人は、人々の行き交う改札の前で、美鶴が消えたであろう方角を睨んだ。蒸し暑さが漂う辺りに、ベルガモットの香りが染み入るように微かに流れる。気休めのような風が吹いた。聡の髪がサラリと揺れた。ベルガモットが微笑んだようだった。





 ムカつく。
 弥耶(やや)は唇を舐め、目の前で揺れている制服を睨む。
 本当なら今ごろは自分もアレと同じ制服を着て、同じように笑い、同じようにスカートを翻しながら颯爽とした高校生活を送っているはずだった。なのに。
 納得できない。
 ジャージのポケットに突っ込んだ右手を握り締める。美鶴に突きつけたナイフが、ポケットの中で鈍く光る。
 アタシは悪くない。悪いのは唐渓の人間だから。だから、唐渓の人間は全員消してやる。大丈夫だ、今度は前のようにヘマなんてしたりしない。すばやく突き刺して急いで逃げれば、捕まるコトはないはずだ。
 幸い、こんな人気(ひとけ)のない裏路地だったら、たとえ相手が騒いでも人が駆けつけるまでには時間は掛かる。
 弥耶は駅裏の路地をゆっくりと進む。前を行く唐渓生はなんとなくそわそわとしながらもこちらに気付く様子はない。
 それにしても、こんな寂れた駅の路地裏に、唐渓の生徒が何の用事だ。ひょっとして、一般人には知られていない隠れ家的なカフェでもあるとか?
 そう考えると、怒りが増す。
 そうだ、唐渓の生徒は高校生や中学生の分際で学校帰りに洒落たカフェへ立ち寄ったりもする。車で迎えに来てもらって、付き人を伴ってレストランへ直行する輩もいた。弥耶も同級生に連れられて行った事がある。フォークを突き刺すのがもったいないくらいにデコレートされたスイーツが運ばれてくる、あの至福の瞬間。だがそれは、同時に屈辱の瞬間でもある。
「お気になさらないで。今日は私からのご馳走ですわ」
 何度も両親にねだったが、逆に弥耶が学友を連れてそのような店へ行く事はできなかった。弥耶はいつも下っ端だった。上に伸し上がる事ができなければ、誰かの影で庇護を受けるのが懸命だ。他の生徒から後ろ指を指されようとも、唐渓で生き抜いていく為にはそれ以外に方法はない。だから弥耶は耐えた。中学の二年と数ヶ月を耐えたのだ。それなのに。
 ナイフを握り締める。
 アタシをあれだけ虚仮にしておいて、挙句にこのような扱いを受けるなんて、絶対に納得できない。
 グッと足に力を入れる。ふと立ち止まった前方の女子生徒に向かって突進した。
 躊躇は許されない。だから弥耶はぶつかる直前、目を瞑った。一気に突き刺した方がいい。この間のように押し倒してから刺すなんて方法を取っていては、また失敗してしまうかもしれないから。
 そう思って一気にぶつかった。つもりだった。だが、顔やら胸やら、予想していたところには、予想したような衝撃は無かった。逆に背中やら二の腕に締め付けられるような痺れ。
 痛い。
 思った時には床に転がされていた。
 え?
 驚いて目を見開く。目の前には唖然と立ち尽くす唐渓生。
 失敗、した。でも、なぜ?
 一瞬前の記憶を思い返す。そんな弥耶の思考を、甘い声が遮る。
「白昼堂々、ずいぶんと大胆だね」
 地面に打ち付けた背中の痛みに眉を顰めながら半身を起こす。そんな弥耶の目の前で、少年が少女に右手を伸ばす。
「大丈夫?」
 柔らかな栗毛が揺れた。どこかで見たような。
 一瞬見惚れる。
 動きの止まった弥耶を見下ろす少年。
「サングラスにマスクねぇ。花粉症の時期なら目立たないだろうけど、さすがに梅雨の時期ではおかしいんじゃない? まぁ、そろそろ紫外線を気にする女も増えてくるだろうとは思うけどね」
 卑猥に歪められた口元が弥耶の視界に飛び込む。思わず息を吸った。
「つ」
 慌てて口を押さえる。マスクをしていたから聞こえなかったかもしれない。聞こえていてもくぐもっていて、聞き取れなかったはずだ。
 そうあって欲しいと願い、弥耶は飛び起きた。そうしてすばやく駆け出す。捕まるワケにはいかない。
 だが二歩目は少年の長い足に引っ掛けられ、今度はうつ伏せに転んでしまった。
「こんな事しておいて逃げるつもり? ってか、逃がすと思う?」
 ゆっくりと歩み寄る。
「それに、今の何? つ?」
 屈み込み、襟首を掴む。そうして弥耶が無様に顎をあげている顔からサングラスを叩き落した。そうしてマスクもズラす。
「なんだか、ボクの事を知っていそうな雰囲気だったね」
 言いながら顔を覗き込んだ。一瞬眺め、そうして薄っすらと瞳を細める。
「お前、柴沼(しばぬま)?」
 勢いよく身を起こし、相手を振り払おうとする。だが逆に背中を叩かれ、再び地面に突っ伏した。
「へぇ、こんなところで元級友に出会えるとは思わなかったよ。お前、柴沼弥耶だろ? 確か中三の時に中退した」
 左手の人差し指を唇に当てる。
「自主退学だっけ? まぁ、仕方ないよね。姉貴があんな騒動起こしたんだから」
「悪いのはお姉ちゃんじゃない」
 背中の痛みに耐えながら、なんとかそう答える。
 逃げる隙を伺いながら睨み上げてくる相手。その、遺恨のようなものを含めた視線に、少年は顎をあげた。
「じゃあ、誰が悪いと?」
 そこでふと視線を落とす。
「ひょっとして、最近唐渓の生徒がよく襲われるって噂、犯人はお前か?」
「あ、それ、私も聞いた事が」
 少年の数歩後ろで、唐渓の制服を着た少女がようやく口を開いた。だが、弥耶と目が合うや、慌てて身を縮こまらせる。そんな少女を少年が振り返る。
「へぇ、知ってるんだ。噂が広まらないように、学校はかなり頑張ってるみたいなんだけどね」
 よく見てみれば、少年も唐渓の制服を着ている。
 そうか、彼も唐渓高校へ進学したんだな。
 虚しさが込み上げる。
 アタシは、どうしてこんなところでこんなふうに地面に這いつくばっているのだろう。







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